潔癖症もどき(正式に診断されたわけではないので)の私は、今や消毒用のアルコールタオルが手放せない生活を送っている。とりあえず日常生活に支障が出ない程度にまで回復こそしたが、一時期はゴム手袋をしないと何も触れなかったり、ほんのわずかな砂埃が手についただけで、
「うわわわ、このちっちゃい中に潜んでいるであろうダニが手の中に潜り込んで心臓とか肺に行って不治の病にかかって死ぬんだー」
 と、勝手に自分でパニックに陥ったりしていた。
 傍から見ればコメディそのものだが、当の本人はディザスターの真っただ中。週三とか週四のペースで世界の終わりが心に訪れるという様を想像してほしい。シャレにならない。心を海とするなら、凪の日なんて年に数日あるかないか、あとは良くて荒波悪くて大しけ大津波である。
 さて、こんな有様に私が成り果てたのには、もちろん不安障害であるという側面が大きい。しかしそれと同じく、自分がひどく罪深い存在に思えてしまう、という昔から続いているおかしな思い込みも、見過ごせない点だと思う。
 前科があるわけじゃない。これまで(一応は)清廉潔白に生きてきたつもりだ。何故かって? 母が怒るとメチャ恐いから。
 それはさておき、誰かから責められるほどの重い罪を犯した経験は皆無なのにもかかわらず、一体どうして自分を罪深いなどと思うようになってしまったのか。
 その源ははっきりしている。“両親の離婚”という重大事件だ。
 今のご時世離婚なんてものは珍しくもなんともないし、片親なんてのもザラにいる?
 その通りだ。人によっては「その程度で?」と一笑に付すだろう。
 でも、ね? 私にとっては二十年以上ずっと引きずり続けている一種の枷(かせ)なのですよ。
 授業参観の時、市営プールで遊ぶ時、保護者参加の運動会の種目の時、周囲を見回せば、父がいないのは私ばかり・・・・・・のように見えた(よく見れば片親の子は他にもいたはずだ。それどころか両親がいない子だって。しかしそんな余裕なんて、当時の私に持てるべくもなかった)。社会というものがよく判らなかった歳であっても、”親がいない”ということへの異常性並びに劣等感はひしひしと感じていた。
 当然のことながら、両親の離婚の原因は両親にあり、私自身には一切の責任はない。にもかかわらず、私はこの一件で罪を背負ってしまったと、”勝手に”思いこんでいるのだ。
 この様がどれほど不可解で滑稽なことか。ちゃんと自覚している。でも、どうやっても、どうに言い聞かせても、自分が悪い自分のせいだ、と自動的に思ってしまうのだ。
 これははっきり言ってたちが悪い。
 ひどい時には、この世で起こる全ての不幸事の原因は自分にある、とまで思いこんでいた。
 自罰意識というのか。それとも不幸を気取る自分に酔ってるだけなのか。いずれにしても端から見ればうっとおしいしウザいし、強烈なかまってちゃんにも見えることだろう。
 しかし、この罪深いという意識が、思わぬ成果を上げるときもある。
 大学に進学すると、当然学費が必要になってくる。父が出て行ったせいで、母は仕事と育児を両立せざるを得なくなり(幸いにも祖父母が同居していたので、負担は分散できた)、裕福では決してない実家の家計は切迫する。かといって、当時研究職を本気で目指していた私にとっては、せっかくの大学で勉強できる時間をアルバイトで潰したくはなかった。
 そこで私が目を付けたのが、授業料免除という制度だった。母子家庭な私はこれに申請する権利があったので、一も二もなく申請した。しかし当然のことながら、申請者全員が授業料免除になるわけではない。免除になるには、それなり以上の良い成績を納めなければ申請は通らない。
 だから私は必死で勉強した。通常なら有り余ってるエネルギーを、遊びやバカ騒ぎにぶつける年頃だが、そんなものは邪魔だとばかりに、さながら修行僧のように勉強に励み続けた。
 途中血尿が出たり原因不明の高熱(最高39度8分)が出たり、耳鼻の炎症でめまいが起こったりと、健康面に多大なる影響をもたらしはしたが、どうにかこうにか、大学生活四年間、計八期全てで授業料免除(全額)が受理された。タダで大学の授業を全て受けられたというわけだ。
 そしてその結果が、心と精神の崩壊−−不安障害と鬱病の発症である(病気の側面で見ればこれだけだが、もっと内面の奥深くの、それこそ無意識の領域までもがボロボロになっていた気がする。私というヒトが壊れた、そんな感じだった)。
 考えてみれば当然だ。四年間もの間、自分の限界以上の頑張りをし続けたんだから。むしろ内臓に深刻なダメージを追わずに済んだことに感謝だ。もし内蔵の方に行ってたら、引きこもりや人間不信どころか寝たきり生活、最悪この世にサラバなんていう事態になっていたかもしれない。
 なぜこんな無茶ができたのか。それこそが私の”罪深い”という意識だった。
 せめてもの償いで、親には迷惑をかけないようにしよう、と切に切に思い、四年間授業料タダという、明らかに自分の能力を超えた功績を残した。
 だが、その後の鬱病発症で、リストカットまでしてしまい、貧乏以上の辛い思いを親にさせてしまった。これこそ一生もんの後悔だ。電話口での母の嗚咽は、一生耳から離れないだろう。
 現在、こういった過去のトラウマを克服するために、カウンセリングやら色々と行っている最中だ。そしていつか、この身を苛むトラウマが薄れて過去から脱却できたとき、果たしてこの罪深いという意識は消えるのだろうか。それとも消えずに残るのか。
 それは誰にも判らない。
 私にできるのは、生きづらいことこの上ない毎日を、ちょっとでも苦痛の少ないように過ごしてゆくだけである。

あらすじ__

 法医学者の“私”が年の暮れに目にした、世にもおぞましい轢断死体。

 私は初めて死体から後ずさりをした。その死体は、笑ったまま死んでいたのだ。

 

400字詰め原稿用紙:10枚

 

ジャンル:ホラー

 

※グロテスクな描写が含まれますので「R-15」とします。

 

本文は「続きを読む」から

 


 

 


 つい昨日の夜のこと。

 この三連休は惰眠を貪って過ごしていたため、案の定眠れなかった。ここまではよくあることなので特に問題はなかった。

 ところが、布団の中でじっとしていた時、ふとある考えが頭をよぎった。

「このまま息を止め続ければ死ねるんだよな」と。

 いつもなら、何をバカなことを、と一蹴する考え。

 だが私は何の迷いもなく実行に移した。

 息を止める。当然苦しくなってくる。脈拍が速くなり、眼球が熱を持ち始めた。よしこのまま……。

 と、いうところで息を思いっ切り吸い込んだ。そしてさっきまでの自分を振り返り恐怖した。

 死のうとしたのか? あんな「ちょっとコンビニ行ってくる」みたいな感覚であの世へ行こうとしたのか?

 リストカットの時ほどの恐怖は無かったが、代わりに変な笑いがこみあげてきた。

 うつ病と診断されてからのこの十年。頭の中に自殺願望は常に在り続けてきた。だが、実行に移したことは2回しかなく(いや、2回もある、と言うべきか)、そのどちらも前後不覚状態での行動だった。

 ところがここ一年になって、ちゃんと意識を保ったまま実行に移しかけることが稀に起きている。

 上記のこともそうだし、少し前は仕事場の窓から飛び降りかけた。特に何を思ったわけでもなく、普通に、それこそ家の階段を昇るような感覚で、窓のサンに片足を乗せ、グンと体重を向こう側へかけようとした瞬間に我に返って飛びのいた。

 まぁ窓といっても2階なので、飛び降りたところで――頭からならヤバいが――最悪足の骨折程度だったと思うが、とにかくこういうことが稀にだが起きている。これまで頭の片隅でくすぶっていただけの願望が、外に漏れだし始めているのだろうか。

 一応言っておくが、このことはしっかり主治医並びに臨床心理士の方に話してるし、対策法やその他色々忠言を頂いている。自殺がどれほど愚かなことかも自覚できてるし、実際に行おうとすればいかに家族を悲しませることになるか、血が出るほどに痛感している。

 でも、2階から飛び降りようとしたあの時は、そんな重要なことなど頭からすっぽり抜け落ちてた。それが何より怖い。もし今度自殺願望が表に現れた時、いの一番に家族の顔を思い出すことが出来るだろうか。

 全てはこんな難儀な心(もとい脳)を持って生まれたせいだ。だからといって、親は絶対に責められない。

 グダグダと長くなってしまったが、結局何が言いたいのかというと、一日も早く「何が何でも生きていたい」と思える対象に出会いたいということだ。今の私にはそれがない。それさえ見つかれば……。

 人は思考する動物である。


 誰が言ったかは知らないが、こんな感じの名言があったような気がする。こんなヘンテコ人間な私にも、とりあえずは当てはまる。


 さて、読者諸兄はご存じと思うが、ネコは時に何もない虚空をジーッと見つめ続けるという行動をとる。生憎私がネコを飼ってないので実際に見たことはないが、その様子を納めた動画をいくつか見たことがある。オバケとか、見ちゃいけないものが見えてるんじゃないのかと、そんな疑いを抱くような行為だが、何を隠そう、私もよくこれをしてしまうのである。

 

 いや、するというより”陥る”といった方が適切かもしれない。(他の発達障害関連のブログではこの状態を「フリーズ状態」と形容している)

 

 昔は授業中とか、家族との団らん中とか、電車での移動中とか、さらには登下校中にこの状態に陥ったことが何度もあった。時が経つにつれ消えるかと思われた。が、ところがどっこい。今も絶賛継続中だ。

 

 さすがに家の外でこの状態に陥ることはなくなったものの、パソコンでの作業中とか読書中、DVDの鑑賞中とかに時々陥っている。端から見れば、急に動かなくなって何もない床や天井の一点をじっと見つめ始めるので、さぞ気色悪いだろう。

 

 しかも厄介なことに、この状態にいつ、どうやって、何が原因で陥るのか、私自身全く判らない。”陥る”と表現しているのはそういうわけだ。何の前触れもなく突然、それこそブレーカーが落ちるのように、カタンっとなってしまう。その間肝心の私の意識はどうなっているかというと、空想の翼を限界まで広げて、頭の中の世界のあらゆるところを飛びまくっているのだ。

 

 ん? 表現がヤバい?

 

 仕方がないじゃないか。必死に言葉を選んだが、もっともしっくりくる表現が「トリップする」なんだから。断っておくが、断じてそういう代物に手は出していないので、くれぐれも勘違いなさらないように。ね。

 

 さて、では肝心の空想の内容についてだが、これが実に多種多様。

 

 某巨大ヒーローになって世界を救ったり、逆にスゴウデの暗殺者になって気にくわない奴を片っ端からぶち殺したり、かと思えば、世界的な映画監督になってアカデミー賞を受賞したり、逆に落ちぶれ果てた映画スターになって路地裏を無一文でさまよったりする。

 

 その他数え切れないほどの空想(妄想とも言う)をしてきたが、モテモテになって複数の女性から言い寄られるハーレムものは一切無い。不思議に思っていたが、自身がLGBTだと判って、そりゃ当然か、と納得した。

 

 と、こんな感じで長い間空想に入り浸ってきたわけだが、二年ほど前にふと思うことがあった。いつまでこんなことを続けるつもりだ、と。

 

 意識的に止められるものじゃないからこんな悩みは無意味なのだが、さすがに空想という言葉が似合わない歳になってきたのは事実である。「そろそろ現実に目を向けなよ」という声が、どこからか聞こえてきていた。

 

 だが、二年ほど思い悩んだ結果、私が導き出したのは「放っとこう」というものだった。まさかの放置である。投げだしである。試合放棄である。そりゃ、俯瞰で自分を見れば異様なのは間違いない。ウルトラマンや仮面ライダーに変身して悪と戦う空想、もとい妄想を続ける中年男。心が少年のまま・・・・・・いや、良いように言うのはよそう。心が未成熟の大人だ。

 

 でもしょうがないじゃないか。これが私なんだ。俯瞰で見てキモかろうがなんだろうが、日常的に空想に入り込んでヌフフと含み笑いをしてるのが今の私という人間なのである。笑いたければ笑え。半泣きになっちゃうだろうけど受け止めちゃろうじゃないかっ。

 前回に引き続き今回も私の奇癖について述べたいと思う。

 

 今は昔。虫さされの矢水といふものありけり−−。小学生の頃の私は、よく外へ出てよく遊び、何故か周囲の子供より数倍よく虫にかまれる、活動的な子供だった。すっかりインドア中のインドアになってしまった現在からは月とすっぽん、天と地の差である。(ネットがなかったからというのも大きいと思われる)

 

 でも、普通の小学生が嫌がるであろうことが好きという特徴は既にしっかりと出ており、夏休みに毎日開かれていた、町内会主催の早朝ラジオ体操が大好きで、イヤイヤどころかむしろ喜び勇んで参加していた。目的は体操ではなく、出席の印に押してもらえるスタンプを集めることだ。小さな手帳に次々スタンプが押されていく様を眺めて、ムフムフと一人悦に入る。正直な話、計六回の夏休みの中で、最も楽しかったことは何かと問われれば、このスタンプ集め、と答えるかもしれない。

 

 さて、そんな日々の生活の中で、もう一つの楽しみがあった。それが「ウルトラセブン」と「仮面ライダーV3」である。

 

 最近はてんで見かけなくなって誠に残念なのだが、「夏休みスペシャル」とかなんとか題して、早朝に昔の特撮番組を再放送していた。再開してくんねぇかな〜、「ファイヤーマン」とか「ミラーマン」とか「ジャンボーグA」とか、絶対観るのに・・・・・・。

 

 まぁ、それは置いといて。とにかく上記の二番組が当時再放送されており、ラジオ体操を終えて帰宅すると、上手い具合に丁度放送開始の時間帯になるわけだ。そして朝食をとりつつそれを観るというのが習慣となっていた。

 

 そこから特撮にドハマリし、この時ばかりは私も、数多の子供たちが通った道に沿って、事あるごとに変身ポーズをしてヒーローごっこに勤しむようになった。

 

 もちろん独りで。基本ヘタレなので、ごっこ遊びでも殴り殴られ蹴り蹴られというのはイヤだったのである。

 

 ここまではよかった。そう、ここまでは。

 

 まさか中学高校に入ってもこれを続けることになるとは・・・・・・。

 

 いや、誤解はしないでほしい。さすがに外で「トォ!」とか「ジュワッ!」とか叫んで一人ヒーローごっこはしなくなった。変身ポーズをとるという動作だけが癖として残ってしまったのである。

 

 今でも気がつけば、ウルトラマンや仮面ライダーの変身ポーズを、何の脈絡もなく突然とったりする(ちなみにお気に入りは「ウルトラマンレオ」と「仮面ライダーBLACK」)。さすがに街中では自重するものの、洋服屋で試着室に入った時なんかは確実にしてしまう。仮面ライダーの変身ポーズは全身を伸ばす形になるので、試着には丁度いいのだ。・・・・・・普通に手を伸ばせよと言われればそれまでだが。

 

 断っておくが、もちろん「変身!」とか叫んだりはしてない。さすがにそれをやっちまったら、ただのアブない人である。見られでもしてたら羞恥の極みで赤面汗顔必至である。そんな自爆体験からは小学六年の時を最後にキッパリ縁を切っている。(近年もあわや、という時はあるのだが)

 

 この奇癖を心理学的に説明しようとすれば、予想だが「変身願望の現れ」というふうになるのだろうか。確かにそれだと納得がいく。なにせ物心ついてから、「自分」が何より嫌いだった、という筋金入りの自虐人間である。いまだに自分は好きになることはできておらず、ようやく”許せる”ようになった段階だ、と言えば、いかに私の自虐感情が根深いか察して頂けると思う。

 

 だが、この自虐云々は正直どうでもいいことだ。重要なのは、私が特撮ヒーローものが大好きだということ。長々と語ってきたがこの一言に尽きる。厄介なオタクの懐古のような話になってしまうが、私が子供の頃は、生まれる前の特撮作品を観ることができる機会はごく限られていた。家は貧乏ではないにしろ裕福でもなかったので、レンタルビデオに頼るしかない。だが、いかんせん田舎の店。いくら全国チェーンでも全巻揃ってるシリーズなんてまず無く、運良く見つけても日に焼けてテープビロビロ。品ぞろえも1、4、5、9巻−−みたいに歯抜け状態だ。だからDVDやブルーレイで確実に全話、しかもデジタル処理された、ノイズ無しの綺麗な画面で観られることの幸せったらひとしおである。おまけに宅配サービスのおかげで、わざわざ外出しなくてもポストに届くんだからもう至れり尽くせりだ。昔を思うと「どこの王様だ!」とツッコミたくなる。

 

 日頃不幸だ不幸だと嘆くことが多い私だが、少なくともこの点だけははっきりと、今幸せだ! と、断言できる。

 今回は私の奇癖(きへき)の一つを紹介しようと思う。

 

 えー、まず読者諸兄には、自分がリュックサックを背負うところをイメージして頂きたい。さて、どうだろう。

 

 どうだろうと訊かれてさぞ困惑されてると思う。おそらく大多数の方は、いたって普通にヨッコラショットとリュックサックを背負われたろうと思う。極々普通の日常の動作。文字を書くようにも、しくは歩行するように、特別に意識を集中させることもなくできる動作である。

 

 ところが私はこの動作を行うためには、ある手順を踏まなくてはならない。

 

 まず、自分がこれから背負うリュックサックのファスナーが、しっかりと閉まっているかどうか、二三回確認する。それから両腕を通した後、腕を背中に回して、再びファスナーがちゃんと閉まっているか確認をする。そして「よし」と安心し、ようやっとリュックサックを背負うことができるのである。

 

 この動作はいついかなる時でも必須であり、もしこれを行わずに背負ったりしようものなら、たちどころに強烈な不安におそわれる羽目になる。

 

 何故こんなヘンテコリンな癖を持つに至ったのか、元をたどれば、やっぱり我が暗黒の中学生時代に端を発する。

 

 その日、授業で体育と美術が重なり、体操服やらシューズやら画材等を学校指定のカバンとは別に、リュックサックに詰め込んで帰路に就こうとしていた。

 

 校門までの道のり、私の後ろからは、いつものように同級生が「ウェーイ」だのといってコツいたりしてからかってくる。が、もうこんなのは日常だったので、我関せずとテクテク歩いていた(反応すれば奴らはつけあがりエスカレートする)。

 

 校門まで数メートルの所まで来た時、周囲の異変に気づいた。同じ教室で日々勉学に励んでいるクラスメイトたちが、なにやらクスクス笑っている。その視線は皆一様に私に注がれている。

 

「なんだなんだ? 別に今は奇行をやらかしてもいないし、漏らしてもいないし・・・・・・ハッ・・・・・・うん、社会の窓は大丈夫だ」 

 

 戸惑ってる私を後目に周囲の嘲笑ともとれる様子は収まるところを知らない。

 

 一体なんだ、とふと後ろを振り向いてみると、そこに答えがあった。

 

 私の体操着やらシューズやら画材等が、直線上に地面に落ちていたのだ。

 

 慌てて拾い集め始める私。

 

 かがみ込んだ私の上を、クスクスと笑いながら通り過ぎてゆくクラスメイトの奴らーーこの光景は絶対に忘れられない。未だに夢に見るし、おそらく一生心から消えることはないだろう。いつも私をからかうグループ”以外”のクラスメイトが、誰一人として落ちた荷物を拾ってもくれず、それどころか私を嘲笑しながら次々に通り過ぎてゆく。曲がりなりにも一応は味方だろうと思っていた人たちが、瞬時に全員敵に見えるという恐怖は、私の心にひときわ深い傷跡を遺した。その傷の深さは、現在に至るまで私が見てきた悪夢のおよそ六割が、「大勢から嘲笑される」「一斉に裏切られる」「群衆の中で孤立する」というシチュエーションだという事実からも、相当なものだということが推測できる。

 

 そんな中で、唯一荷物を拾うのを手伝ってくれた同級生がいた。残念ながら彼とは高校が別になって以来疎遠になってしまったのだが、私は今でも彼のことを唯一の“親友”だと胸を張って言える。

 

 私の大学進学と前後して、彼はどこかに引っ越してしまったのだが、かつての彼の家だった空き家の前を通る度に、叶うのなら一度で好いから、会ってお酒でも飲み交わしたいなぁ、とおセンチな気分になるの私であった。

 

 もっとも、服用してる薬の関係でアルコール接種禁止な身の為、こっちはノンアルコールビールになるだろうが・・・・・・。えぇい、いいんだ。その場の空気と思い出話で最高に酔えるってなもんだい。

ジャンル:??

 

400字詰め原稿用紙:6枚

 

本文は『続きを読む』からどうぞ。

 

 

 幸か不幸か。精神面はズタボロのボロボロにもかかわらず、身体的にはほとんど病気もせずに健康に生きてこられた私だが、やはり人の子、無病息災というわけにはいかなかった。

 

 病魔が訪れたのは耳だ。

 

 病名は、中耳炎。

 

 うん、確かに重いか軽いかでいえば、軽い部類にはいるだろう。

 

 しかし、だ。左右合わせて”七度”も襲われれば、塵も積もれば何とやら、それなりに後遺症が残るほどのダメージを受けた。

 

 中耳炎、チュウジエン、ちゅうじえん・・・・・・。あぁ、この言葉の響きを耳にするだけで怖気が走る。かかった経験がある方には理解していただけると思うが、痛いし疼くし痒いし何より治療がめっっっちゃ怖い!

 

 一般的に子供がもっとも嫌がる病院といえば歯医者だが、私にとってはあんなモノ屁のかっぱ。ベリーイージーである。ダントツで怖いのは耳鼻咽喉科だと、私は断言する。(もっとも今後の人生でもっと重い病気にかかることがあるかもなので暫定的ではあるが)

 

 はじめて中耳炎にかかった時のことは、強烈に記憶に残っている。風邪で熱が出た次の日ぐらいの真夜中。突然左耳に激痛が走り始めた。ズクンズクンと強く疼き、ワーーーンという大音量の耳鳴り、そして音が聞こえなくなった。

 

 母を叩き起こし、恐怖のあまり泣きじゃくりつつどうにかこうにか朝を待ち、朝一番で耳鼻咽喉科へと直行した。

 

 ずいぶん長い待ち時間(一時間以上はあった)の後、診察室へ通された私を待っていたのは、にこやかなお医者さんと看護師さんたち。当時の私には、この笑みが死神に見えたのは言うまでもない。

 

 で、歯医者のようなリクライニング機能付きの診察台に乗せられ、左耳の中を金属の漏斗のようなもので覗かれ、「あぁ中耳炎ですね」の一言。

 

 ここからが地獄だった。病状がそれなりに進んでいたらしく、手術の前に消毒をしましょう、ということになった。この消毒の痛さったらなかった。左耳になにかの液体を流し込まれた瞬間、ジュワァァァという発泡音。そして激痛だ。

 

 もちろん私は大号泣。母の話では、おたふく風邪の予防接種の時、泣きはしたもののここまでではなかったそうだ。エーンではなくギャーンという大泣きであった。

 

 そのシュワシュワという痛みに耐えること数十分。私の名前が再び呼ばれた。

 

 あの地獄へ再び戻れと!? イヤダいイヤダい!

 

 駄々なんて全くこねたことがなかった私が、生まれた初めて本気で駄々をこねた瞬間であった。

 

 もちろんそんなワガママが聞き入れられるはずもない。心境はもはや、電気椅子に座った死刑囚である。

 

 そして「ちょっと痛いよー」という医者の声。

 

 ……医者の言う「ちょっと痛い」は、「滅茶苦茶痛い」と同義だということは常識である。

 

 案の定メチャクチャ痛かった。私は絶叫した。その痛みたるや、先ほどの消毒の比ではなかった。

 

 なにせ耳の中にメスを入れられ、化膿していた部分を切除したのだから無理もない。恐らく消毒液の中に麻酔成分も含まれていたのだろうが、それでも痛いものは痛かった。

 

 天地がひっくり返ったような精神状態で、本能のままに叫び続けることどれぐらいだっただろうか。現実には数分だったろうが、私には数時間に思われた修羅場がようやく終わった。

 

 号泣と激痛で疲労困憊満身創痍。左耳にガーゼを張り付けられた私は、ぐでーっとなって母におんぶされながら、帰路についたのでした、とさ。

 

 こんな思いを七回も味わえば、そりゃトラウマになるってもんである。

 

 不幸なことに、無駄に丈夫な我が体の中で、弱い部分の一つが耳鼻咽喉であり、風邪をひいたりすると十中八九喉や鼻、あるいは喉と鼻の間の部分がヤラレる。耳鼻咽喉科にお世話になり、そのたびに恐怖心と戦う羽目になる。

 

 さて、前置きがかなり長くなってしまったが、ここからが本題である。今回のテーマは耳鼻咽喉科が滅茶苦茶怖いという話ではなく、この計七度の中耳炎の後遺症(だと思われる)として残った、耳鳴りの話である。

 

 草木も眠る真夜中。電気を消して布団の中に潜り込んで目を閉じる。国道を通る車さえもほとんどなく、何も音がない沈黙が訪れる・・・・・・はずなのだが、私の場合は違う。

 

 擬音で表すならウォーン。高いとも低いともとれない電子音のような音が、ずっと鳴っているのである。実際にそんな音が鳴っているわけではない。ようは耳鳴りである。

 

 先ほど中耳炎の後遺症と言ったが、これに関しては正式な診断は受けてないし、何より聴力に問題はないので、単なる私のストレスか、体質か、それとも皆さんにも無音状態で普通に聴こえている音なのかもしれない。

 

 でも、その原因や正体が何であれ、周りが静かになればなるほど、私にはこの耳鳴りが始終聞こえ続けているというのは事実である。これを消す方法はただ一つ、音楽でもなんでもいいから、とにかくなにか別の音を流してかき消すしかない。

 

 これはもう二十年以上続いているものなので、正直慣れてしまった。特に苦でも何でもなく、体調が悪かったり、ストレスがすごい時に大音量になるので、その時に辛いなぁと思うくらいである。

 

 ただ、これが厄介なもので、発達障害と正式に診断されてから、この耳鳴りが気になって気になって仕方なくなってしまった。

 

 自分が発達障害だと診断されて、楽になったのは事実である。これまで自分の頑張りが足りないからだの、自分は甘えてるだけだの、散々己を攻め続けてきたことが、先天的なモノだと判ったときの解放感たるや。恐らく塀の向こうのお勤めを終えて「もう来るんじゃないぞ」と言われたとき、あんな感じなんだろうな、と思えるほどのものだった。

 

 しかし、やはり世の中そう上手くはいかないもの。発達障害という自覚は、それまで全く意識しなかったことまで、発達障害につなげて考えてしまうようになってしまった。そのうちの一つが、件の耳鳴りというわけだ。

 

 まさに病は気から。意識すればするほど症状(音量)が大きくなってゆく。

 

 ちょっと体調悪いなぁと思って何となく熱を計ってみると37度2分で微熱があると自覚したその途端に一気に体調が悪くなる、というアレと同じようなものだ。

 

 幸いにして、耳鳴りに対する過分な意識は次第に薄れていき、現在ではほとんど元の状態に戻っている。

 

 しかし、ここまで書いてきて我ながら思うが、なんだかんだで投げ出さずにしぶとく生きているものだ。

 トラウマという言葉が本来の意味から飛躍し、社会に広く浸透してから、それなりの年月が経った。やれ世間では、ちょっと怖い思いをしただけで「トラウマになっちゃってさぁ」。どこぞで痛い目に遭ったら「もうこれ完璧トラウマだわ」。心に傷どころか、嫌な思い出=トラウマというレベルで軽々しく扱われている。

 

 この件に関しては一切文句はない。私だって、チャラい言葉は使わん使わんと、中学の頃から努めてきたが、結局は「ヤバい」を始め「マジ」「チョベリバ」「超〜」「アゲアゲ」等の言葉たちの浸食に抗うことは出来ず、最近だと「ガラケー」なんかも自然に口に出るようになった。最近の若いモンは……とつい小言を言いたくなってしまうような歳になってしまったが、目下の者を貶めてまで自己のプライドを守るような、そんな中年には出来ればなりたくない。

 

 今回は、そんな中年間際の私のトラウマを語ろうと思う。ちなみにここでのトラウマは、今でも夢に出てきてうなされ寝汗ぐっしょり、しまいには大絶叫と共に飛び起き、時にはフラッシュバックまで起きて現在進行形で私の精神を蝕んでいる、正しい意味でのトラウマである。

 

 全く自慢にならないが、私の持っているトラウマは多い。そんな数多いトラウマの中でも、最もえげつなく、最も心をえぐっているものの大半が、私が中学生の時に生まれている。できたら全部紹介していきたいのだが、いかんせん辛い体験が多すぎたせいか、当時の記憶は断片的にしか――よりによって嫌な記憶ばっかり――残っておらず、そのほとんどが思い出すのも辛いエグい代物ときてる。よって今回は、その中から二つの思い出をピックアップし、ここに記していこうと思う。一気にやったら恐らく倒れちゃうので、そこはご容赦願いたい。

 

 では、まず一つ目。

 

 中学校入学当時、私はピエロだった。道化という意味で。

 

 発端は小学五六年の頃。あまりにも周りの生徒たちが自分のことを事あるごとにからってくるんで、ヤケクソになって、自分から積極的に笑われにいっていたのだ。例を挙げると――プロフィールが似ていたとある格闘ゲームのキャラクターの名前で呼ばれると、頼まれてもいないのにそのキャラの必殺技の真似をする、というような感じで。

 

 私も笑い相手も笑うので、外見(そとみ)は仲良さげに見える。だがこっちは心の中で号泣である。「ヤメロヤメロ! アッチイケ!」と心中で何度叫んだことか。

 

 顔デ笑ッテ心デ泣ナイテ……これが当時の私の生き方だった。いや、サバイバル術と言った方がいいか。

 

 一応言っておくと、暴力は一切なかった。暴力的な言葉で攻撃されることもなく、どちらかといえば“イジり”に近い感じだった。しかし、生まれつき冗談が理解できない(ASDの特徴の一つ)私が、そんな器用なコミュニケーション能力など持っているはずもない。今だとイジリだったのかなぁ、なんて思えるが、当時はどう考えてもいじめとしか思えなかった。

 

 さて、そんなピエロが中学に入り、そこでも道化を貫けるかというと……残念ながらノーである。

 

 これが二つ目となる。

 

 クラスメイトによる「調子乗んな」の波状攻撃である。

 

 パターンは単純である。私が何かをする。それに対して周囲が「調子乗んな」と言う。ただこれだけ。いたって単純な児戯だ。

 

 しかし、調子に乗るな――この短い言葉の言霊はかなりのパワーを有しており、それから実に二十年近くに渡り、私を苦しめ続けることになったのである。

 

 事あるごとに調子に乗るなと言われ続けると、普段の何の変哲もない行いでさえ、「あ、もしかして、今私調子乗ってるんじゃなかろうか」と思うようになってくる。一種の催眠、いや調教と言えるだろう。特に顕著だったのが、発言に対する抑制効果である。何を言っても「調子に乗るな」と言われるわけだ。それが行き着く先は……そう。積極的に自分の意見を自ら封じ込め、誰にも心を開かずにひたすら本音を隠して生き続ける、今の私である。

 

 今になって思えば、あれらは一種のイジりであり、クラスメイト側からすれば、何を考えてるのか分からない私とのコミュニケーションを取るためのきっかけ作りだったのかもしれない。当時は一方的にこれはイジメだ、と決めつけていたが、最近になってようやくこういった考え方ができるようになり始めた。

 

 もちろん当時に受けた苦痛やらクラスメイトに対する憎しみ云々のどす黒い感情が綺麗さっぱり消えたわけではない。むしろ年月が経つごとに少しずつ増している気すらある。

 

 これらを一気にぶちまけるのは簡単だ。だがそうしてしまえば、最悪塀の向こう側へとお勤めに出なくてはいけなくなる羽目になりかねない。そうならないために、このエッセイを書いている部分もある。過去を振り返るのは正直言ってキツイ。今こうやって書いていても、変な所から冷や汗が止まらない。あらかじめ不安を抑えるとん服薬を服用しておかないと、執筆中動悸はするわ手は震えだすわで、そらもう心がシッチャカメッチャカになってしまう。

 

 そんなに辛いんだったらもう書くな? えぇ仰る通りでございます。

 

 でもね、書きたくなっちゃうんだよ。書かなきゃって思っちゃうんだよ。書かないでいると余計に体調が悪くなっちゃうんだよ。だからこんな吐瀉物まがいの文章ですけども、どうかある程度書き切るまで、お付き合い頂けたらと思います。

 風に混じるセミの声と、アスファルトを泳ぐ陽炎。よく冷えたラムネに真っ赤なシロップがかかったかき氷。氷水につけたスイカをシャクっとかじると、瑞々しい果汁が一気に全身の汗を引かせ、傍らでは蚊取り線香のほのかな芳香が漂い――と、いう“ザ・日本の夏”の原風景。いいものだ。例えこの身が脂症並びに人一倍汗っかきのために、連年ニキビとアセモそして熱中症への悩みと不安に苛まれているとしても――。

 

 ところがこんな風流な光景の中に、私がどーしても苦手で我慢ができないものが存在する。それはズバリ、風鈴の音である。

 

 そよ風に乗ってチリンチリン……。涼しげじゃあないか。風物詩じゃあないか。その通り。しかしこちとら生まれてこの方、あの甲高いチリンチリンという音を心地良いと思ったことなど一度もない。ましてや涼し気なんてもってのほか。涼しげどころか“狂おしげ”である。

 

 昔はこんな自分がイヤだった。ドラマでも映画でもアニメでも、そして現実でも、風鈴はみんなに愛されている。チリンと鳴れば「おぉいいねぇー」なんて言ったりしている。全然よろしくないんですけど、ただただ耳障りなだけなんですけど、耳の奥がキンキンしてしゃーないんですけど。なんでみんな平気なんだろう。でも「あれイヤなんで撤去してもらえます?」なんて言えないしなぁ。はぁ、憂鬱。――と毎年こんな具合になっていた。

 

 結局これも、ASDと診断されて溜飲が下がった。最近つくづく思うのだが、私のアイデンティティーは、ASDの診断によってはじめて構築され始めた気がしてならない。そもそも、私は昔から“自分”というものを持ったことがなかった。いや、正確には持っていたのだが、それを必死になって持つまい持つまいと逃げ続けていたのだ。だから……いや、この話は長くなる。申し訳ないが、この件は後日別項にてということで。

 

 閑話休題。

 

 ASDの特徴の一つとして“感覚過敏”というものがあり、私はその中の聴覚過敏にドンピシャ当てはまっている。
 簡潔に言えば音に敏感ということなのだが、どういう音にどう敏感なのか、これは同じASD当事者でも個人差が非常に大きいので、一概にこの音が苦手という風にはっきりと――例えば狂犬病で水が怖くなるみたいに――述べることは出来ない。そこは注意して頂きたい。

 

 さて私の場合だが、風鈴のような高く響く音は鼓膜に突き刺さる感じがするから単に苦手というだけではなく、厳密に言えば、聴こえてくるあらゆる音のボリュームコントロールが上手くいかないため苦手なのである。

 

 あぁ、言葉で説明するのが難しいというかメンドクサイッ。

 

 でも、頑張ってみよう。

 

 恐らくだが、ASDひいては発達障害当事者では無い方々の耳は、例えば運動会の校庭のような、あらゆる音がひしめき合っている状況でも、今話している相手の声という“必要な音”を数多くの音の中から取捨選択し、聞くことができるのだろう。この機能――私からは超能力にしか思えない――が、私は非常に弱いと思って欲しい。

 

 スピーカーから流れる音楽やアナウンス、観客の歓声、足音、スターターのピストルの破裂音、生徒たちの応援、等々多種多様な音が、ほぼ同じボリュームで同じ重要性を伴って耳に届いてくる。当然、目の前にいる聞き取るべき話し相手の声だけをその中から拾い上げるなんてことは至難の業になってしまう。

 

 何か一つのことに激しく没頭(これも発達障害の特徴の一つで『過集中』と呼ばれている)している時なら、この世から全ての音が消え去ってくれるので問題ないのだが、普段の生活において、外の車の音と家族の声とテレビの音が同じ感覚で聴こえる時があるもんだからたまったものじゃない。“時がある”と言ったが、前述した状態は常時そうというわけではなく、私の場合は不定期に現れる。そのパターンみたいなものを導き出そうとしたのだが、全然からっきしで、結局“仕事場ではほぼ確実に現れる”という有り難くもなんともない証明ができただけだった。ショボン。

 

 しかし現在は、呻吟の末、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンを常備することで、この問題はほぼ解決できている。文明の利器、万々歳である。

 

 話を風鈴に戻そう。風鈴に関して、私の数少ない武勇伝の一つがある。

 

 七、八年前の十一月。私はある資格を取るために家で勉強をしていたのだが、それを大いに妨げやがる音が現れた。そう、風鈴である。斜向かいの家の軒先に、秋真っ盛りだというのに吊るされていて、しかも百均であるようなプラスチックのでなくちゃんとした風鈴なのでチリーン……と、まるで仏壇の御鈴(おりん)のように遠くに遠くに、即ち私の鼓膜目がけて一直線に響いてくるのである。(不思議なことに御鈴の音はちっとも嫌ではない、むしろ好きな部類に入る。同じような音なのに。謎だ。)

 

 夜になっても片づけられないものだから、真夜中でも容赦なく鳴る。寝ようと目をつぶると聴覚が余計に鋭敏になるため、当然なかなか眠れなくなる。それが数日数週間と続き、さすがに我慢の限界を迎えた私は、取り外してくださいと意見を言うために斜向かいのお宅へ行こうとした。しかし家族に止められた。曰く、そこに住んでいるのはご年配のご夫婦で、世間体もあるしご近所トラブルになるのだけは避けたい、と。

 

 現在はこの考えには十分納得できる。(大人になったでしょ。エッヘン)しかし当時、私は若かった。全然納得なんていかなかった。苛立ちは怒りへと変わり、結構強い口調で直談判しに行っちゃろ、とまで思うようになった。しかし、私の怒りの感情の処理の甘さのせいで家族に迷惑がかかるのは、それ以上に嫌だった。

 

 なので、手紙を送ることにした。その当時、運よく私は郵便配達のバイトをしていたため、その家のポストに不審者と思われることなく手紙を入れることが可能だったのだ。

 

 ネットで調べると、私と同じような悩みを持つ人たちがたくさん見つかって、風鈴の旨を伝える手紙の書き方も見つかった。手書きではなくパソコン印字にすること。送り主の名前は書かないこと。決して強い口調を使わないこと、等々……。

 

 そして、一週間ほどかけて文章を考えに考え抜いて(正直小説の十倍は文章に気を配った)、その手紙を配達物と一緒にポストへストン。

 

 数日後、風鈴は無くなっていた。

 

 やった! イェス! オゥィエス!

 

 これまで人に(家族にさえも)自分の意見を伝えるということが極端に苦手で恐怖でさえあった私にとっては、この出来事はまさに快挙だった。判った時、表情こそニコッぐらいでさほど変化はしなかったが、頭の中では、それはもうカーニバルである。勝利した騎士団の凱旋である。無血開城成功である。ファンファーレ鳴り響きっ放しである。シャンパンのコルクだって数十個ポン!ポン!ポン!と吹き飛んださ。

 

 当初風鈴は私にとって害悪でしかなかったが、この瞬間それはまさに勝利の鐘へとその姿を変えたのである!

 

 ……と、威勢よくカッコつけて書いたわけだが、冷静に考えるとなーんでもないことなんだよな。あぁ、なんだか恥ずかしくなってきた。久々に筆が乗ったと思ったらこれである。いかんなあ、こういったものに自制は必要ないと思うが、制御は必要なんだからなあ。難しいなあ……。